ゆとり教育のなにが問題だったのかもう一度考えよう
ゆとりの同志たちよ、かくゆう私もゆとり教育を受けたゆとり世代の一人だ。1988年から1996年生まれの人がゆとり教育を受けた世代らしいが...
1988年に生まれた人はおそらくさほどゆとり教育を受けていないだろうが、私はゆとりど真ん中。ゆとりエリートとも呼ぶべき、ゆとりの中のゆとりだ。
1988年のたいしてゆとりでもないゆとり世代の先輩方が社会にでて以降、ゆとりって使えねえなみたいな論調が高まりつづけている。
そしてそれに呼応するかのように、ゆとり教育ってのは大人達が勝手に決めたもの。私たちは何も悪くない。みたいなスタンスのひとが急速に増えた。
ゆとり教育は失敗だったのか?
『ゆとり』というワードがあまりにキャッチーだったことから、ゆとりがどうのこうのという論戦になりがちだが、まずゆとり教育がそもそも失敗だったのかについてもっと掘り下げて考える必要があると思う。
まずゆとり教育は戦後から続いた『詰め込み教育』を問題視し、もっとゆとりをもった教育をしましょう。というところからはじまった。
週休二日制になったり、学習する内容も減った。週休二日制になったのだから授業時間が減り、学習内容が減るのも必然であろう。
徒競走はみんなで手をつないでゴールするなど一部の学校でしか行われていないことがさも全国で行われているかのように報道されたりもした。
ゆとり教育が失敗だったのかをどう判断するの?
では、ゆとり教育が失敗だったのか。
私はまず、ゆとり教育が失敗だったのかをいったいどうやって判断するのだと聞きたい。学力低下を例にあげる人がいるだろうが、それを証明するデータはまだないだろう。
というよりも学力が低下するのはそもそもあたりまえのことと言える。授業時間が減るのだからそうなるだろう。授業が減った分理科の知識は少なくなったかもしれない。なにか理科の知識を問うテストがあればゆとり世代の平均点は他の世代より下かもしれない。
ゆとり教育の問題は学力の低下なのか?
が、現在の就職活動の状況を見てほしい。『コミュ力』なる本当にそんなもの存在しているのかすらあやしい能力が神格化され、ただの高学歴では就職できない状況だ。もちろん学歴は『学歴フィルター』というあってあたりまえな物の存在が示すようにある程度の武器にはなる。しかし、学歴などお飾り、コミュ力こそすべてという雰囲気もあるのが現状だ。
センター試験などで問われる知識の量が人よりも優れているということが仕事では何の意味も持たないことは誰もが認めるところであろう。
そう考えてみれば学力低下など(その存在は確認されていないが)たいした問題ではないはずだ。
ゆとり世代より上の世代が授業を受けていたはずの時間に我々ゆとり世代は勉強ではない何かをしていたはずだ。
もしかしたら漫画を読んでいたかもしれないし、テレビを見ていたかもしれない。友達とカラオケに行ったかもしれないし、お母さんの家事の手伝いをしたかもしれない。起業した人もいるだろう。はたまた自ら勉強していたかもしれない。だがそのすべてが無駄だったとは思えない。
勉強以外のなにかをしていた時間に価値を見出した。それがゆとり教育であり、私はその考え方が先進的だとすら思える。
ゆとり世代への批判はゆとり教育批判ではない。
ここで勘違いしがちなのだがゆとり世代への批判はゆとり教育への批判ではないということだ。
ゆとり社員への愚痴でよく聞くのは、飲み会にこない。上司が残業しているのに帰るなどだ。いちいち挙げるときりがないのだけれど、『人それぞれ』と『時代だ』でたいていのことは片付くと思う。
飲み会にこない人なんてのはどの時代も一定数存在したはずだし、ゆとり世代で急激に増えたというデータがあるなら教えてほしい。
『残業を嫌がる』に関しても人それぞれなのだが、これはもしかしたら実際増えているのではないかと思っている。データがないので大変恐縮ではあるが...これは時代がそうさせていると考えている。
インターネットの普及により価値観が多様化したのだ。おそらく上の世代の人と比べると仕事、女、車に対する意欲が低いと思う。
これは意欲的な人が減ったということではなく、別のことに興味を持つ人が増えたということである。そしてコンテンツが増えたということでもある。
日本の停滞感をゆとり世代は怖がっている
それにこの日本を覆うなんとも形容しがたい閉塞感をゆとり世代はひしひしと感じているのである。昔は会社に入り一生懸命働けば、結婚、子育て、穏やかな老後が確定ではないにしろ、なんとなく約束された感じがあったのかもしれない。
しかし今は一寸先は闇である。終身雇用が壊れたことにより、上司に毎日怒鳴られてもひたむきに頑張りさえすればよかった時代ではなくなっている。(もちろん上司に毎日怒鳴られてもひたむきに頑張り続けることは困難ではあるが)
そしてそれを証拠づけるように意識高い系という謎の人種まで生まれた。意識高い系についてはその定義についてもあいまいなのであれだが、起業を志す若者は増えている。
これはネットビジネスの出現により、会社に属さなくても収入を得ることができることに起因している。一人から始められることが爆発的に増えたのだ。
それに会社に依存する生き方への危惧も大きな理由であろう。彼らが『成長』『人脈』を好むのは会社というものに対して懐疑的になっているのだと思う。
つまり意識高い系とは現代日本が作り出した化け物である、と私は結論づけている。
ゆとり教育を決めたのは大人達だろって言うのはバカっぽいから辞めよう
上記の理由からゆとり教育は素晴らしく、成功だったという気はさらさらない。
ゆとり教育を受けていた時、我々は子供だった。日本の教育制度を変える力なんてなかったし、変える力をもつ大人達に投票する権利すらなかった。しかし、『私たちにゆとり教育を受けさせた大人達が悪い』ではあまりにも幼稚過ぎるとは思わないか。
ゆとり教育は失敗だったのかという問いに私はこう答える。
答えはまだわからないと。
我々は働きはじめて間もない。まだ働き始めていないかもしれないし、働くという形も変化している。我々ゆとり世代の真価が問われるのは10年後、20年後なのだ。20年後あなたは会社で実績を残し認められ一大プロジェクトを任せられているかもしれない。ノーベル賞を取っているかもしれない。
ゆとり世代に待つ未来は厳しい
状況は厳しい。考えなければいけないことは山ほどある。子供は大学に入れてやらなければならないし、年金もどうなるかわからない。2020年東京オリンピックが控えているとはいえ、人口は減少していく。
インターネットはグローバル化をもたらした。今までは日本の市場だけを見ていればよかったかもしれないが国内市場は縮小していくばかりだ。世界の市場を取りにいかなければならない。
やることはどんどん複雑化していく。中国そしてインドにはすぐに追い抜かれるだろう。もう追い抜かれているかもしれない。
だけどそれがどうした。
私たちが勉強以外のことをしていた時間の力はそんなものか。このままゆとり世代ってダメだとバカな大人たちに言わせ続けていいのか?
冗談じゃない。
そんなのはまっぴらごめんだ。
私たちはまだ始まったばかりだ。グーグルが登場した今でも、なにもわからないし、なにも知らない。だからもっと学ぶ。もっと勉強する。
情報を取捨選択して困難な現状に立ち向かっていこうじゃないか。答えなんてない世界で答えらしいものを自ら頭で考えて行動していく。そのためのゆとり教育だったんだ。
ゆとり教育を無駄だったなんて言わせてたまるか。ゆとり教育を唱えた文部科学省のお偉いさんに恥をかかせちゃだめだろ。だから10年後、20年後ゆとり教育が失敗だったなんて言われないように、今がんばろう。
なにをがんばればいいとか、なにをすべきかなんてのは誰にもわからない。だから自分で決めたその未来に一歩でも近づけるように日々過ごすんだ。
ゆとり諸君、ゆとり教育を決めたのは大人のせいだって言うのはバカっぽいから辞めよう。ゆとり教育が失敗にならないためにそれぞれが日々頑張る。上の世代の方々も力を貸してください。よろしくお願いします。